待つことの悦び 四方田犬彦

くり返し手にとり、手垢で汚れてしまっている座右の書。

思わぬ困難に出くわして、あるいは嵐のような出来事に巻き込まれたり巻き込んだりして、ああやっと一息ついた、という時にこの本を手にとる。
なかば習慣として。

思うに、嵐に巻き込まれているまっただ中では、書物は(書物以外のありとあらゆる芸術も創作物も)なんの役にもたたない。
具体的な解決策も、役にたつようなアドヴァイスも、知恵も、そこに記されてはいない。
おそらくはどんな人でも、嵐の中にあっては身ひとつで放り出され、じっと耐えているしかないのだ。

嵐が通り過ぎ虚無感に襲われたとき、ただ混乱だけが残されたとき、はじめて書物は手にとられる。

人は時をたたせることはできない。時がたつのをただ眺めているだけだ。

時をいたずらに人為でたわめようとしてはならない。自分の尺度のもとに切り売りしてはならない。ただ、その移行を眺めているだけで充分なのだ。激しい悲しみは長くは続かない。水で薄めたような、微かな心の悲嘆はなるほどいつまでものこるかもしれないが、それに耐えることはできなくもない。

時がたつのをただ眺めている、そのとき隣に書物があってほしいと思う。
微かな痛みをわかちあうものとして。
待つことの悦び