生きているのはひまつぶし 深沢七郎

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

「生きているのってあれでしょ、結局死ぬまでの間のひまつぶしなんでしょ」
なんてことを10歳ぐらいの子が言い出したらちょっと困ると思うのだけど、
「やりたいことや夢がたくさんあるし、死ぬなんてすごい怖いことだし、おれはまだ絶対に死にたくない」
と80過ぎたぐらいの人が本気でいっていたら、それはそれで気の毒になるかもしれない。
私の祖母はもう20年ぐらい前からずっと「早くお迎えが来ないかなァ」と言って仏壇を拝んだりしていたが、私はその気持ちがずっとわからなかった。
というか、ちょっと気持ち悪い、と思っていた。正直にいえば。
今はすこしわかる。
ちなみに祖母のところには、まだお迎えはきていない。


少年期には恐れていた死というものが、言い換えれば生きることへの執着が、青年期から中年期のあいだのどこかの時点で、ちょっと薄まる。
「いずれ自分も死ぬんだな」と、なんとなく、受け入れる準備ができてくる。
それで、うちの祖母ぐらいになると、準備完了。
うまくできたもんだなあ、と思う。
このうまくできたレールに乗れない人もやっぱり、いるのだけど。


深沢は、どの時点で<生きているのはひまつぶし>と悟ったのだろうか。
本書におさめられたエッセイ(と、たぶんインタビュー)は、深沢がラブミー農場に移った50歳以降のもののようだ。
デビュー作「楢山節考」が42歳の作品であるから、もうこの時点では<ひまつぶし>だと考えていたかもしれない。
楢山節考」の土臭さ、あらゆることを内包しつつそれを突き放してひとつの風景としてみる視点は、私にそう思わせる。
あの小説で、おりんは自分の丈夫すぎる歯を自ら石で砕き、死に備えていた。
生きたから、あとは死の準備をする。
そのあっさりした死生観は、はじめてこの小説を読んだときには、受け入れがたかった。が、なにか大きなものに触れた、という感覚も確かにあった。
今私は、私自身がおりんのように死に備えることがあるとしたら、それはいつ、どのようにして起こるだろうか、と考える。
私が死を恐れるでもなく、良きものとして憧れるでもなく、自然に迎える準備ができる日は、来るだろうか。


本書は深沢の価値観、生活感覚を知る上で良いものだった。
セックス、三島由紀夫、金、さまざまなことについて深沢は自分の思うところを語る。
生活者としての視点を、深沢は守りつづけている。
そのうえに登ることも、生活者としての視点をおとしめることもしない。
全ては<生きているのはひまつぶし>というところから発していて、吸い込まれていく。
この人と話してみたかったな、と思う。

楢山節考 (新潮文庫)

楢山節考 (新潮文庫)