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昨日書いた
はてなで自分が読んだものとか、見たものを記録するようになって以来苦しんでることがある。
それはひとつ書く毎に「これをココ(はてな)で書く必然性ってあるのかなー」といつも不安になることで、そのために私はいつも書いたものを消したり直したりしている。
このことについて、書いた後一時的にすっきりはしていたが、やはりもやもやするものがあり、その後もずっと考えつづけた。
朝方まで考えて眠れなくなった私は、なんと寝坊して仕事に遅刻してしまった。
職業人として最低である。
ともかく、今日一日かかって考えを纏めた。
私が苦しんでいることをすこし詳しく整理してみると、
- 思うように書けていない。それなのに、納得のいかないその文章をウェブにさらしている。しかもそれが習慣化してきた。
- 文章を書いた後に起こる自己嫌悪無限ループ。文章のみならず、考えたことそのものに自信が持てなくなる。
この2点になると思う。
よし、ひとつずつ片付けよう。
まずひとつめ。思うように書けないこと。
思うように書けさえすれば、それをウェブにさらすことには、たぶん意味がある。
全くないと思うのなら、そもそもはてなを始めたりしていないはずなのだ。
では、思うように書けないとはどういうことか?
- 頭の中で起こっていることと、実際に書き出してみた文章との間に差がある。
例えば書いた言葉に引きずられてしまい、頭の中身をあらわすことよりも、文章の体裁を整えることのほうに重点が移ってしまったり、おさまりを良くするために結論を急ぐことがたびたびある。
これだ。これがイカンのだ。こんなことを習慣化してはいけない。
私は自分のために決まりをつくることにした。
考えたことを正直に書く努力をすること。
言葉に引っ張られて、文章が頭で考えたことと食い違ってきたと感じた時は、ただちに書く手を止めてもう一度やりなおすこと。
結論を急がないこと。
ふたつめ。書いた後に起こる自己嫌悪無限ループ。
この問題は、一つめの問題をクリアすればある程度解消されるかもしれない。
自己嫌悪の内容を見つめてみると、思うように文章が書けていないということがまず一番に大きいからだ。
ただし、自分が考えたことの内容そのものに自信が持てなくなるのには、別の理由もある。
- 自分への過大評価と過小評価が交互にやってくるため、ひどく不安定になる。
というのがそれだ。
書物、映画、音楽から受け取ったものによって思考のふれ幅が大きくなる。その気持ちよさ、興奮が、自分の思考の結果を過大評価させてしまう。
しかし受け取ったものを咀嚼する過程で、本当にそうなのか?間違っていないのか?という疑問がうまれる。本来ならその時こそ、受け取ったものを昇華するチャンスなのだろうが、私は怖くなってそれ以上踏み込んで考えたり、経験に照らし合わせて検証することをやめてしまうのだ。
そうして自分の思考の結果を過小評価することになる。どうせこんなのたいしたことないんだ、間違いかもしれないし、という風に。
自分自身の精神衛生上、これはよくない。進歩も無いし。
またもや決まりをつくる。
書物、映画、音楽などから受け取ったことについては、よく吟味すること。
わからないことや疑問は、そのまま書きとめておくこと。
充分に咀嚼できていないと感じる時は、やたらに書き散らして自己嫌悪に陥らないよう、作品の基本情報や、気になる点をメモするに留めること。
そして充分に考えたり、何か他のことをきっかけにその作品が蘇ってきた時に改めて書くこと。
考えを進めるために必要な時間と労力をおしまないこと。
さて。
こういうことをとあるビストロで酒を飲みつつ纏めた後、私はいつも立ち寄る駅の書店で立ち読みを開始した(せこい)。ここの書店は、品揃えが素敵なのでお気に入りの立ち読みスポットなのである。
そして、ああ、運命の出会い(両手を天空に突き出すイメージで。実際には少し手が震えた。鼻の穴もたぶんちょっとふくらんだ)!
- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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帰りの電車で夢中になり、駅を3つほど行き過ぎてしまった。
4つめの駅のホームで寒さに震えつつも、続きを読んで反対方向へゆく電車をまった。
私がうれしかったのは、この本の冒頭にあるエピソードだった。
著者である加藤典洋さんは、批評家柄谷行人の著した「隠喩としての建築」に対する批評を執筆するに当たって、身体に異常をきたすほどの不安に見舞われた、と書いている。
件の書物には、夥しい数の大思想家、哲学者の名が出てくるらしい。柄谷氏のように、自分もこれらの思想家の著作を読破し、その思想を理解した上でなければ、柄谷氏の書いたものを批評することなど到底不可能なのではないか。書き進むうちに、加藤さんはそのような思いにとらわれた。
一度、そういう不安が身をもたげてくるともうダメ。夜、布団のなかで眠ろうとするとからだが冷たい。心臓の鼓動が高まり、いくら布団にもぐっても震えがくる。物書きの仕事をしていて、これほど身体的な異常に見舞われたことはあまりない。どうしようもないので、六月ごろのマンションの部屋を午前三時くらいに抜け出し、建物の道路を隔てたすぐ向かいにある河原沿いの土手を、歩きながら、どうしよう、やはりフーコーとデリダくらいは、本を買ってきて読んでみようか、読んだからといって悪いことはないだろう、と考えたり、しかしもう締め切りが迫っていて時間がない、と思ってみたり、いや、そんなことをするくらいならなぜこの本を選んだのだ、と自分を叱咤したりした(後略)
こののちに、加藤さんは自分が批評をやろうと思った原点に立ち返り、柄谷氏への批評を書き上げることになる。その考える過程もとても面白くてためになるが、私は批評家と呼ばれる、物を書く仕事をしている人にさえ、こんな不安が襲ってくることがあるということが、なんだかうれしく感じられたのだった。
引用した箇所には、大の大人がウロウロしながらああでもないこうでもないと思い倦ねる姿のおかしみがあり、面白いのと同時にほっとする。
してみると、今朝の私の遅刻事件も、ちょっとした勲章に感じられるからフシギ(しかし遅刻が尾を引いて、一日職場で暗い顔をしていた)。
まあ、私のはてなダイアリーと柄谷行人への批評とでは、その性質とか緊張感とかまったく比べ物にならないわけですが…。
でも書物や映画や音楽に触れてハッとした時に、それを誰かに伝えたいという気持ちはやっぱり自然なもので、それは加藤さんもこの本のなかで言っている。
できるだけ忠実にそれを伝える、ということを私はたぶんはてなでやりたいのだ。
考えたことやなんかをできるだけ忠実に伝え、伝えながらさらに考えていくということが。
実は私は高校生の頃、加藤さんの講演を聴いている。
加藤さんは私の高校の出身なのだ。
肝心の講演の内容はきれいさっぱり忘れてしまった。たぶん、理解できなかったんだと思う。
ただ、高校生だからといって手加減をしない人だなあ、とぼんやり思ったことだけは、記憶している。