前回の続きで『世界の中心で…』をみて思ったことを書こうと思っていたが、要するにそれはこういうことだ。
『世界の中心で…』が見るものに感じさせるのはあのカタルシスというやつで、昔からある種の悲劇がそういう効果をもたらすことは知られてきた。
私が言いたいのは、カタルシスをもたらすものが悪いということではなくて、この映画の場合、もたらすためのその手段が悪すぎるということだ。
この物語のために、白血病という病による死がどれだけ必要だったのだろう。
たぶん白血病でなくとも、エイズでも、他のガンでも、何でも良かったはずだ。
結末を見ると、どうしてもそう思ってしまう。
この映画の中では、結局最後まで、白血病それ自体に言及する場面も、足に障害を持つことそれ自体に言及する場面も、ない。
病や障害は、彼、彼女たちがどれだけ不幸で可哀想か、そんなことをわかりやすく見せるための道具として軽々しく扱われる。
ひどい話だ。
純愛映画、と公開当時から宣伝していたが、これをつくっている人たちにとって純愛とは何なのだろう(純愛というのがもし、あるなら)。
恋人が死んだら、純愛なのか。セックスがなければ、純愛なのか。
男と女の話を書こうとしたらセックスは避けて通れない、と言ったのは渡辺淳一で、この人はセックスの話ばかり書いていてそれもどうかと思うが、とにかくこの映画で一切そういう場面が描かれないのは、この映画の浅はかなやり口を象徴している。
とにかくきれいごとを並べておわり。
ほんとうにひどい話だ。
そしてもっとひどいことには、この映画はきっとすぐに鑑賞者の記憶から消えてしまう。
病や障害についてくり返し考えさせるような力も、死と死の周辺について考えさせるような力も、敢えて排除している(としか思えない)。
泣いたらスッキリしたでしょ、純愛だったでしょ、じゃ、さよなら。そんな無責任さだけが見える。
ひどい話を通り越している。
私がこの映画を見て感じたのは怒りと嫌悪感で、だからどれだけ感傷的な気持ちを掻き立てられようと、絶対に泣いてなんかやらない。